私が見ている「赤」は、あなたにとって「青」かもしれない。
でも、「赤色はどれですか?」と質問されれば同じ色を指差している。
だから、生活上なにも問題はない。
私にとって「青」だと思える色が、あなたにとって「赤」だとしても確認しようがない。
誰でも信号を見て「赤」で止まることができるし、「青」で進むことができる。
だから、不都合はないのだ。
「私にとって」と「あなたにとって」の色が違うかどうか確認しようがない。
目をテレビカメラだと仮定する。頭の中をテレビ画面だと仮定する。
私もあなたも同じ物をテレビカメラで捉えることはできる。
しかし、同じようにテレビ画面に映っているかは分からない。
私は一生自分のテレビ画面しか見ることができないのだから。確認できない。
「言葉」等で表した時点で、異なっていることが同じことになってしまっているかもしれないという妙な気持ち。
モーニング娘。ハロープロジェクトについて、「誰が可愛い可愛くない」「どの曲が好きだ嫌いだ」「誰の歌が上手だ下手だ」「どのコンサートが良かった悪かった」「どの番組は面白かった面白くなかった」
などということを、実際に会って、もしくはネット上で意見を交わすことがあると思う。
私達は人それぞれ意見・感想が違うということは認めることができると思う。
しかし、それより手前の段階で既に異なっているとしたら…。
理解し合うことなど到底無理なのではないだろうか?
答えが出ない…。